道を照らそう

ときどき思い出す

アルクトゥールスから地球人への中で、

確か・・・

霊長類の中にエフェメラルが閉じ込められてという所

 

この部分、私は閉じ込めらるというよりも、

あ!だから、心はキラキラ✨しているんだ!
そうなんだ!だからだ!って思った
心の中に、妖精がいるんだ、私たちは妖精だ(笑)

 

冒険心が強くて、楽しいことが好きで
肉体を持つことの素晴らしさを味わったから
留まった

 

やっぱり、そうなんだ
身体を持って生きている事が、最高に楽しくて
幸せなことなんだという証明

 

怪しいと言えば怪しいけど、
怪しいとしても、すごくリアルだと思った

 

ここ最近、

「詩に興り、礼に立ち、楽に成る」の言葉が
とても気になった

そこから、本を読んでみたら

「礼」とは、今日の言葉で言えば、部分と部分、部分と全体との調和・秩序であります。
人間は常に自己として在ると同時に、自己の集まってつくっておる全体の分として、
それぞれみな秩序が立っておるのでありまして、これを分際という。限界であります。
これに対して自分の存在を自由という。
人間は自由と同等に分際として存在する。これを統一して自分と言うのであります。
従って自己というものは、自律的統一と共に自立的全体であり、全体的な調和であります。
これが礼と言うもので、あらゆる自己がそれぞれ分として、全体に奉仕してゆく、大和してゆく。
それが円滑なダイナミックな状態を「楽」というのであります。
「礼」と「楽」とは儒教の最も大切なものの二つであります。
全体的調和を維持してゆくには、どうしても各々が自分にならなければならない、
自己になってはいけない。自己は私というもので、私という字は禾偏にムと書きますが、
ムは曲がるで、禾を自分の方に曲げて取ることで、それをみんなに分けてやるのが公であります。
如何に自己を抑えて自分になるか。これが「己に克って礼を復む」ということであります。
復はかえるでも宜しい。

 

特に大事なことは、何万年、何前年来漸くここまで発達させて来た精神生活・心霊の世界を
今一度回復することであります。ここ数百年来分析というものが一つの原理になって、科学が
発達してきたのでありますが、あらゆる分析の中で、一番発達した高等な分析は何かというと
人間が自分自身を省み解明する分析である、とはすぐれた科学者の一致した考えであります。
「己自身を知れ」とはギリシャの諺でありますが、真によく己にかえれば、自分の真生命・真我を
把握すれば、どんな自己でも、必ず独特の意義・価値を追求することが出来るのであります。

 

心が照らされるのではなく、心がすべてを照らしてゆくような学問をしなれければならないので
あります。安岡正篤

 

自己と自分の定義がよくわからず

自己=客観的に自分、他からそう見える自分
自分=存在の総体、私という存在自体

と、読むと、なるほど・・・古典もまた楽し

心のキラキラを大切に

 

 

 

Follow me!

LINE@でもお問合せいただけます

LINE@ならお問合せもカンタン!

他の方からは見えないように、
1:1トークで返信いたします。

LINE@だけの限定無料配信もしています。
お気軽にお友達になってくださいね!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA